「ゴルフには逆転ホームランはなく、勝敗は自滅によるものだ」
野球界伝説のヒーロー、ベーブ・ルースのゴルフに対する言葉である。
その天才ホームランバッターは、ゴルフでも豪快な飛ばし屋であった。
安打製造機といわれたタイ・カップが、ルースにゴルフでの挑戦状を叩きつけた。
腕前はルースが断然上。
ほとんど70台でまわるシングルプレーヤーのルースに対して、カップは80台であった。
豪快にかっ飛ばすルースと小技が得意なカップと好対照。
試合形式は3試合18ホールのマッチプレーで、2試合をとれば勝ち。
スコアでは敵わないカップがとった作戦は「心理戦」であった。
野球でもカップはルースを野次ってカッカさせ、ホームランボールを凡打にしたことは数多くあったのだ。
「グリーンで先に長いパットを決めればルースは動揺する。ドライバーでは張り合わず、2打目を先に乗せる」。
この作戦で1試合目、カップの勝ち。
しかし、2試合目は挑発に乗らずルースがとる。
カップは2試合目まで難しいショートパットは、すべてコンシード(OK)にしていた。
ところが3試合目ではどんなに短いパットでもOKを出さなかったカップに、ルースは怒り狂って自滅してしまったのである。
(エピソードはタイ・カップの自伝『野球王タイ・カップ』から引用)。
ベーブ・ルース
1895〜1948年。
本名ジョージ・ハーマン・ルース。
ベーブはベービーからきた愛称。
貧困家庭に生まれ、子供の頃は非行に走り矯正学校に入れられた。
そこで生涯の恩人となる神父マシアスに出会い野球を教えられる。
マイナーリーグのオリオールズからレッドソックスへ移籍。
そこで最初、投手として芽が出て、次第に才能は長距離打者として開花していく。
ヤンキースに移籍してから驚異的にホームラン生産し、背番号の3番は永久欠番。
1シーズン初めて50本を打ち、27年には60ホーマーでを、61年にロジャー・マリスに抜かれるまで34年間記録保持者だった。
最初に殿堂入りした5人の一人。
ホームランを野球の花にし、国民的ヒーローであった。
ゴルフも大好きでシングル。
飛ばし屋であった。
53歳で没。
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ピア・ニールソン
「54ビジョンを実現すれば世界最強のグルファーになれる」
「54ビジョン」とは、18ホールすべてのバーディを奪って54のスコアを達成しょうという考え方だ。
提唱したのはピア・ニールソン。
世界女子プロの頂点に立っているアニカ・ソレンンスタムの先生といったほうが、分かりやすいかもしれない。
ゴルフに完全はない。
しかし、それに近づくための指標は必要である。
その指標が54というスコアなのである。
かといってまだ誰も54を達成していないし、これからも出ないかもしれない。
しかし、それを不可能と決めつけると自分で限界をつくることになると、ピアはいうのだ。
ソレンスタムのゴルフをみれば限界へ挑戦しているのがよく分かる。
宮里藍もこの「54ビジョン」に共鳴していて、キャディバッグにもサインにもこの数字を書き込む。
藍は「樋口久子ICD」で最終日の最終ホール、2位に7打の大差をつけながら、このホールのバーディパットを決められなかったことをいちばんに悔しがった。
54ビジョン達成にいかに奮励しているか、如実に物語るエピソードであろう。
ピア・ニールソン
1958年〜。
スウェーデン・マルモ生まれ。
74年〜81年スウェーデンナショナルアマのメンバーとして活躍。
81年米国アリゾナ州立大卒。
83年から5年間米国LPGAツアー、87年から3年間は欧州女子ツアーに参戦。
通算8勝。
96年からはスウェーデンナショナルチームのヘッドプロに就任。
リサロッテ・ノイマン、アニカ・ソレンスタムらに英才教育をほどこし、ゴルフ王国スウェーデンの礎を築く。
その功績により国王により国民栄誉賞を授与される。
ボビー・ジョーンズ
「人は与えられた条件の中で生きることが大切。これが今私の置かれている人生のライだ」
ゴルフは人生にたとえられる。
晴天もあれば暗雲の日もある。
チャンスもあれば、ピンチのときもある。
好事魔多し。
一寸先は闇。
まさに人生そのものではないか。
球聖ボビー・ジョーンズはゴルフのことのみならず、このような含蓄もまた数多く遺している。
これはひとえにジョーンズの親友でもある著述家O・B・キーラーによって、球聖の言動が詳しく書きのこされているからだ。
それはさておき、この言葉はゴルフにおいても、人生においても遠くは見ながらも、とりあえず目の前のことに対処していかなければ、次の展望は開けないということを「ライ」という言葉で示唆している。
ボビー・ジョーンズ
1902〜1971年。
米国ジョージア州アトランタ生まれ。
父親がゴルファーで生家の庭がゴルフ場続きでもあり、5歳で自然にクラブを握る。
14歳で全米アマに出場。
その後、数々の選手権に優勝。
特に1930年には世界の4大タイトル、全米、全英両オープン、両アマに優勝、年間グランドスラムを達成。
この記録はいまだに破られていない。
全英オープンに勝ち、祖国に凱旋した時は国民的英雄となった。
これを契機にアマのまま引退。
故郷アトランタに戻り弁護士活動のかたわら、オーガスタナショナルGCを設立、マスターズ・トーナメントを主宰。
4大メジャーの一角を担っている。
不世出の球聖として歴史にその名を刻む。